冨樫のとんがりブログ

人が「本当の自分」に気づくためのメッセージを発信しています

僕をいじめていたYくんの話

Yくんは、幼稚園の頃から友達でした。


でもいつの間にかYくんから、
僕をいじめる輪が広がっていきました。





僕が幼稚園に通っていた頃は、
親友と呼べる男が二人いました。


"だいこん"こと、ダイスケ
それからハヤトの二人です。



毎日が楽しくて、いつも3人で遊んでいました。
悪ガキ3人組だったと思います。




でも小学生になると、
同じ学校に二人はいませんでした。



なんでだろう?



とても寂しい気持ちで、学校に通い始めました。
単純に、学区が違ったんです。


僕の街には小学校が二つ。
中学校は一つ。


彼らは隣の村に住んでいたので、
通う学校が違ったのでした。

僕は6歳にして、親友を二人失いました。






幼稚園の頃に、二人ほどではないにしろ、
仲良くしていたYくんという男がいました。


ちょっとお調子者で、なんだかみんなのムードメーカー。
スポーツも得意で、歳は同じだけど、
それとなく兄貴分のように思っていました。



Yくんとは、片道徒歩1時間もある通学路が同じで、
自尊心の低かった僕はよく、
金魚のフンみたいに、Yくんと一緒にいました。


そんなYくんは、いつからか人を侮辱して面白がるようになりました。


僕も10歳を越える頃には毎日のようにからかわれ、
侮辱され、Yくんからいじめの輪が広がっていきました。




内容は大したことがないにしろ、
心の弱かった僕は、本当に毎日が苦しかった。







僕の地域では、お祭りになると獅子舞や天狗舞などの踊りを、
お囃子と共に披露する慣習がありました。


お祭りが近くなる夏休み。


夜に"役場"と呼ばれた18畳ほどの広さの町民センターに、地域の子供と大人が集まります。



8歳から15歳まで毎年参加していましたが
当然そこにいるはずの、
Yくんの姿は一度も見たことがありませんでした。






大人になってから振り返ると、
宗教上の理由で、参加できないようなことを聞いたことがある気がします。



幼稚園の頃に呼ばれた、Yくんのお誕生日会。
そこで会ったYくんのお母さんも、
ずいぶんと怖い印象が残っています。





真偽はわかりませんが、
Yくんが時折見せた、ちょっと寂しそうな表情。

何気ない優しさ。



人をからかってみたり
罵ってみたり



きっとYくんの本質ではなかったと思います。




Yくんのターゲットが僕になったように、
僕もYくんも、きっと同じ寂しさを抱えていたし


お母さんに、お父さんに、認めてほしい気持ちを抱えていたんだと思います。



つまりは似た者同士。



僕はYくんのことが嫌いだったことは、
なかったように思います。
多少の恨みが残っているのは、
解消し続ける必要がありますけどね。





僕はこの経験があったから、



いじめる人間も

いじめられる人間も



表裏一体なのかもしれないと考え始め、
今では強く確信しています。




満たされたい気持ちを、
何か違うもので補おうとすると、必ず歪みが生じます。




そんなYくんの

幸せを心から祈れるようになった時

またひとつ愛が深くなる気がしています。





もし、許せない人がいるのなら

許せない気持ちを持つ自分を

許してあげてくださいね。


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【  22世紀の寺子屋  】

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自分が持っていないものはあげられない

僕は自尊心も低く、自信もなく、いじめられて、卑屈になっていたこともありました。


そんな僕でも、人を励ますのは比較的得意だったと思います。


お前ならできるよ


そう言ってきたし、
そう思っていました。



でも僕の心の中には、ある思いがありました。



「おれみたいな最底辺の人間ができるんだから、お前にできないワケがない」



だから、僕は僕よりも結果が出せない人は、

「できないんじゃなくてやらないだけでしょ」

そう思ってました。




実際に、そこにポジティブな意味合いはなく、
中学生の僕は毎晩のようにパソコンでインターネット。


高校生になると、ネットゲームに溺れ

勉強も、スポーツも

何も努力していませんでした。



勉強は何故か学年で真ん中ぐらいでしたが、
スポーツは不得意で、体育の授業はスポーツをやればミスばかり。

当然同じチームの人は怒ります。



そして僕は「チーム」とか、「集団行動」とかがますます嫌いになりました。






悩んでる人、
ネガティブな人、
自信がない人



そんな人たちに自分を投影して、


励ましたい


そう強く思っていました。





でも当時の僕には、
自信も、
知識も、
経験も
確信も


もっと言えば
愛も
お金も
勇気も
生きる気力も



何もありませんでした。





例えば自分の所持金が
残り3円だとして、


どうやって人に
チロルチョコ
うまい棒
5円ガムを
ブラックサンダー

買ってあげられるんでしょうか。


かなり難しいですよね。



まずは自分がそのものを得るか、
それらを得る手段を得ないといけないですよね。



つまり持っていないものは、
与えることができないということです。







優しい人がたくさんいて、
思いやりの心もあって、

与えたいと思う人たちがいます。


本当に素晴らしいです。








でも、その優しさ"だけ"では、
誰かを救うのは難しいかもしれません。








時間なのか、

物なのか、

エネルギーなのか、

つながりなのか、



自分が持っていないものは、
あげることができないんです。





自分が持っていないものを
あげようとするのはやめましょう。


ますます欲しくなって、


苦しくなるだけです。



持っているものをあげるだけでいいんです。




小さなことから与え合う



その循環を繰り返すだけでいいんです。

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「心の傷は一生」という絶望

この世の中には、自分の常識では考えられないほど繊細な人たちがいます。


僕はその中でも比較的鈍感な方ですが、
今まで出会ったたくさんの方に

繊細だね とか

感受性が強いね とか

言われてきたので、少しは傷付いてきた人の気持ちがわかります。




心についてアンテナを張っていると、
こんな言葉を耳にします。


体の傷は治るけど
心の傷は一生



聞いたことありませんか。



よくいじめ防止の啓蒙活動なんかに使われていたように思います。




僕は思うんです。




あなたのケガは、一生治りません





あなたの病気は、一生治りません







こんな風に言われたら、
そのケガをした人
その病気を患った人


希望を持つ人より、絶望感を持つ人の方が多いんじゃないでしょうか?




僕もいつの間にか


心の傷は一生


そう思い込んでいました。



だからトラウマも、
あの時の苦しみも、
絶望感も、
悲しみも、
心の痛みも


全部一生続くんだ……





そう思っていました。



でもそんなことはありません。



心の傷は、自分自身で癒すことができます。



だから今までたくさん傷付いてきたからといって、諦めないでください。


強く望めば、必ず望んだものがやってきます。



心の傷を癒したからといって、
傷付いた気持ちを忘れるわけではありません。


インフルエンザになった人は、
完治しても熱の苦しみを忘れませんよね?


骨折して入院した人は、
完治しても、あの痛み、病院食、退屈な時間を忘れませんよね?



傷を癒すことができると、
今度はその経験から、
人を癒すことができるようになります。


大丈夫だよって言えるようになります。



心の傷は一生、という言葉に振り回されないでくださいね。



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22世紀の寺子屋

22世紀の寺子屋

という名の会を始めました。


22世紀と聞くと、遠い未来のように感じます。


自分には関係が無いように思う人もいるかもしれません。




でも僕たちの "今" の選択の連続が、
人の営みの連鎖が明日を作り、
未来になります。


その連続した先に


22世紀がある


ただそれだけです。




つまり僕たちの選択したものが、
そのまま明日を作り、
22世紀を作るということです。



従来の日本の教育はピラミッド方式で、
トップが右向け右といえば右を向くし、
白といえば黒も白になるような教育でした。



今もなお、学校ではそのような教育をしています。



もともと学校は寺子屋が形を変えたものであり、
寺子屋では読み書きや計算を教えていたと言われています。


なぜそれを教えていたのかといえば、
生活をするのに必要だったからです。



元々農民の人々も
ただ畑を耕すだけでは生活することが難しかったのか、
商いを持ち、
複数の仕事をするのが当たり前だった
と言われています。


なので読み書きや計算が必要となり、
全国に広がっていったのでしょう。



つまり昔の寺子屋
今で言う学校は生きるのに必要なことを教えていたのです。



学校制度ができてから
およそ130年が過ぎましたが
現代の日本はと言えば、
ほぼ毎年のように
年間3万人が自殺し、
うつの患者は100万人を越えています。



昨日までの常識は今日、突然変わり、


例えばあのリクルートが「新・新卒制度」と銘打って、自ら新卒のルールを改革。

内容は
・27歳までを新卒とする
・内定後2年間、就業まで猶予を与える

というもの。



国は副業を勧め
フリーランスを応援し始めました。


会社員の税金は増える一方で、
それを軽減するつもりはないようです。



SHARPのように、
日本の会社を台湾の会社が買うことが起こったり、
今まででは考えられないようなことがどんどんと起こっています。



そんな中でも、人は今を生きていきます。



でもみんな迷っています。



どこに向かうべきなのか、
何をするべきなのか。




学校では答えを教えてくれません。

でも学校では、答えしか教えてくれません。



つまり学校で教えてくれる「回答」の中には、
もう僕たちが生き抜いていくための知恵はありません。






ではどうするのか。





自分で考えるしかありません。






自分で考えられないなら、
考え方を教えてくれる人に出会うしかありません。





周りにいないのなら、
そういう人たちにどうしたら出会えるのか
考える必要があります。





つまり自分で考えるということです。






これからの時代では、
自分で考える力が必要です。






右向け右で周りに流されるだけで、
自分の人生を生きていると言えるのでしょうか。






考える力を身につけ、
自分の今を変えることで、

明日を作り、

1週間後を作り、

1ヶ月後を作り、

1年後を作り、

10年後、20年後を作り

未来を作り、

22世紀を作り、

また歴史を作ります。




自分で考え、
選択する力を身につける。



それが22世紀の寺子屋の目的です。




考えましょう。


選択しましょう。




僕たちの今が、

子供や孫、

地球の未来へと連鎖していきます。


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次回開催日はコチラ

Facebookのイベントページです。

https://www.facebook.com/events/1812461395673136/?ti=icl

与えるということ〜今の僕編〜

最近、僕に対して

「冨樫さんは本当に与える人だね」とか
「もっと与えていくんだろうね」とか

有難いお言葉をいただくことが増えました。


僕は元々、与えたい!と強く思っていましたし、そういう特性もあるようです。


実は遡ること17〜26歳の間、僕は家族の影響で、とある宗教団体に属していました。
本当は自分で選ばない教義に同意するのは嫌だったのですが、家族への感謝もあって、イヤイヤですが入ったのです。


ただ内容は本当に素晴らしいことを言っていて、

「愛は与えるもの。奪うものではない」とか
「与えたら与えられる」とか

そんな感じのことに重きを置いていたと思います。


当時、全く信仰には興味がなく(というより神道だったので…)、祈りも唱えず、集まりにも参加していませんでしたが、理想とする世界は似ているような気がしました。



僕には当時、「音楽で人の心を救う」という夢があったので、「愛を与えるとはどういうことなのか」真剣に考え続けていました。


ただそもそも人に受け入れてもらえたという実感が全くなかったので、愛するということがどういうことなのか、全くわかりませんでした。

物を与える、行動で示す以外、与え方がわかりませんでした。


とはいえ僕も未熟で器も小さく、たくさんの人を傷付けてきました。
それについては深く反省しています。



そして今、ようやく人から「与えてもらった」と言ってもらえるようになりました。



でも僕は思うんです。

たとえば飼っている猫に餌をあげる時、「ご飯を与えたるという表現をしますよね?

でもその猫が、ご飯を全く食べなかったら、それを「与えた」と言えるのでしょうか?


僕はなんだか、違う気がしてなりません。



この宇宙は、授受作用で成り立っていると言われています。

循環の理も、放つ側と受け取る側がなければ成立しません。


たとえば水の循環。



雨が降る

山に染み込む

川となって海に流れる

海の水が蒸発して雨が降る…



これもほとんど同じですよね。



だから僕は思うんです。


与えたいと思う反面、僕は与えてるというつもりは全くありませんし、

与えることができた!やったー!

とも思っていません。



受け取ってくれる相手がいるから循環する。


つまり僕は



【与えさせていただいている】



ということなんです。


僕にできるのは、
放つことだけです。



受け取ってくださる方がいるから、循環できる。


本当に感謝しかありません。



僕はこれからも放ち続けます。

占いの魔力

僕は占いをしています。

主には、スピリチュアルナンバー
それとタロットカードリーディングです。

※現在は無料で占っているので、気になる方はお知らせください。
https://www.facebook.com/hiro.togap


そして知人には四柱推命
親友は算名学。


なんだかいろいろとご縁があります。


だから僕は知っています。



占いは当たります。




ただ注意する必要があります。
タロットカードに関していえば、

タロットカードリーディング

というぐらいなので
リーディングすることが重要なんです。

なぜならカードは必要な物が出てくるからです。
だからタロットカードで占いをすることを

タロットカードリーディング

というし、
タロットカードで占う人のことを

タロットカードリーダー

といいます。


でもタロットに限りません。
Yahoo知恵袋なんかにもたくさん、
たくさん書いてありますね。

「彼の気持ちが知りたくて、タロットを引くんですが、全然わかりません。不安で不安で…」

そりゃ、わからないでしょ…



不安から占いをする人
エゴが強い人



理由は省きますが、
こういう人は占いをできません。



というか、占いは占い師の人間的な力量が試されます。

僕に限っていえば、受け取るときには
僕のフィルターを極力通さない
つまり「For You」
にならないと、
僕はメッセージを読み取れません。


僕も完璧な人間でない以上、
24時間「For You」でいることはまだ難しいです。
特に顕著なのが、自分で自分のことを占う場合です。
占いの結果を、自分の都合のいいように
解釈してしまうことが稀にあるからです。


インプットするときには
そういう「頑固」のフィルターを消し、
自分のフィルターを通すのは
アウトプットするときだけです。


すると不思議なことに、
後から気付いたり、
今やるべきことが明確になったりします。


タロットに関していえば、
「これをしなさい」ってハッキリ出てくることもあります。
つまり占いはフワッとした「今日の運勢」
みたいなものではなくて、
現実に「こうしなさい、これに気をつけなさい。するとこういう結果になる」というものなんです。


そしてそれを伝える際には、
占う側の力量が試されます。


ネガティブな人は
否定的な言葉で相手を裁くし

ポジティブな人は
相手が希望を持てるような言葉を使う


だから自分の在り方が大切なんです。

・これはダメ
・こうしなさい
・こうするべき
・危ない

僕はこんな言い方をする占い師は基本的に信用しません。


みなさんもご注意ください。

そして人生の一部として、占いも楽しんでいってもらえたらと思います。



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「ジブン解放セッション」

自分を抑圧したために疲れた心を癒し、前向きな気持ちで人生を生きる後押しをする

ジブン解放セッション

鋭意準備中!

寺子屋をやりたい!!!

僕は寺子屋をやりたいんです。
でも寺子屋であって、寺子屋でないのかもしれません。


僕は教育者になりたいわけではありません。

マイケル・ジャクソンもこう言っていました。

【 世界最高の教育とは、その道を極めた人におしえてらうことだ 】



僕はどんな道も極めたわけではないので、今の僕が教育者となり、仮に教え子というものができたとしたら、彼らに気の毒です。




そうではなくて


自分で自分のことを
考えられる人を増やす



ということです。




正解は重要です。
でも全てではありません。



何が正しくて
何が間違っているのか


考えなさいよ


ということなんです。



日々の悩み、
困っていること、
人生の迷い


みんなでシェアしあって、
考えましょう。



どうやって乗り越えるか
気付くために
みんなで考えましょう。



だって、正解を教えてもらっても、
あなたは納得できないでしょ?


ということなんです。



悩みの解決なんて一瞬です。
でもそれが腑に落ちるかどうかで、解決に向かうかどうか、全く違います。



だから考えよう。



そのための寺子屋をやりたいですね!




だから僕は先生にならないし
教育者にならないし
コンサルもしません。




みんなでやりましょう!