与えるということ〜今の僕編〜
最近、僕に対して
「冨樫さんは本当に与える人だね」とか
「もっと与えていくんだろうね」とか
有難いお言葉をいただくことが増えました。
僕は元々、与えたい!と強く思っていましたし、そういう特性もあるようです。
実は遡ること17〜26歳の間、僕は家族の影響で、とある宗教団体に属していました。
本当は自分で選ばない教義に同意するのは嫌だったのですが、家族への感謝もあって、イヤイヤですが入ったのです。
ただ内容は本当に素晴らしいことを言っていて、
「愛は与えるもの。奪うものではない」とか
「与えたら与えられる」とか
そんな感じのことに重きを置いていたと思います。
当時、全く信仰には興味がなく(というより神道だったので…)、祈りも唱えず、集まりにも参加していませんでしたが、理想とする世界は似ているような気がしました。
僕には当時、「音楽で人の心を救う」という夢があったので、「愛を与えるとはどういうことなのか」真剣に考え続けていました。
ただそもそも人に受け入れてもらえたという実感が全くなかったので、愛するということがどういうことなのか、全くわかりませんでした。
物を与える、行動で示す以外、与え方がわかりませんでした。
とはいえ僕も未熟で器も小さく、たくさんの人を傷付けてきました。
それについては深く反省しています。
そして今、ようやく人から「与えてもらった」と言ってもらえるようになりました。
でも僕は思うんです。
たとえば飼っている猫に餌をあげる時、「ご飯を与えたるという表現をしますよね?
でもその猫が、ご飯を全く食べなかったら、それを「与えた」と言えるのでしょうか?
僕はなんだか、違う気がしてなりません。
この宇宙は、授受作用で成り立っていると言われています。
循環の理も、放つ側と受け取る側がなければ成立しません。
たとえば水の循環。
雨が降る
↓
山に染み込む
↓
川となって海に流れる
↓
海の水が蒸発して雨が降る…
これもほとんど同じですよね。
だから僕は思うんです。
与えたいと思う反面、僕は与えてるというつもりは全くありませんし、
与えることができた!やったー!
とも思っていません。
受け取ってくれる相手がいるから循環する。
つまり僕は
【与えさせていただいている】
ということなんです。
僕にできるのは、
放つことだけです。
受け取ってくださる方がいるから、循環できる。
本当に感謝しかありません。
僕はこれからも放ち続けます。